にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

  海民の考古学  

 日本列島は四方を海に囲まれ、沿岸部の人びとは漁民として生きてきました。ここでは古墳時代の人びとの海(山)とのかかわりを考えてみます。

 

 古墳時代の船には、丸木舟と、板材を組み合わせた準構造線がありました。後者の部材は低湿地遺跡からも発見されており、その全形は古墳の装飾や線刻画、船形埴輪から知ることができます。船形埴輪は中期の古墳からしばしば出土し、最も有名な三重県宝塚Ⅰ号墳の埴輪は、大刀や盾・儀杖・蓋を立てて飾った壮麗な外洋船をあらわしています。海民たちはこうした船を操船し、漁労、物資の流通、東アジア外交などをくり広げました。

 近年では復元古代船の操船実験もおこなわれました。その結果、航海には水や食料補給のために頻繁な寄港が必要であり、海賊対策も併せて沿岸豪族の連携が必要であったことが指摘されています。瀬戸内海沿岸の吉備や日本海側の沿岸に位置する丹後や若狭(福井県西部)に築かれた大型古墳は、そうした海路や港湾を押さえた豪族の威勢を偲ばせます。

 漁撈

 魚の捕獲方法には、綱・釣・刺突による漁があり、川や湖沼ではこれに加えて定置の仕掛け漁(エリやヤナ)知られています。網の重りである土錘が集落から出土し、鉄製の釣針・ヤス・銛は古墳の副葬品として出土します。古墳時代には貝塚は少ないものの、縄文時代以来、豊富な海産物を食していたことはまちがいないでしょう。他の考古資料としては、イイダコを捕獲する蛸壺や骨製のアワビオコシが検出されています。海産物は日本の重要な資源であり、カツオ・アワビ・イカ・海藻などは奈良時代には租税(調)として都に収められています。古代時代においても、こうした海産物が交易品として機能したことでしょう。

 なお、飼われた鵜をあらわす埴輪の出土は、鵜飼いによるアユ漁の実施を教えてくれます。また、遡上するサケなどの漁も盛んだったことが、魚の埴輪の存在から示唆されます。

 製塩

 人間の生命に不可欠な塩の生産は、縄文時代からはじまって、弥生時代に西日本で展開し、古墳時代になると一気に増加します。瀬戸内海沿岸、若狭湾紀伊半島、愛知県知多半島などで製塩遺跡が調査されています。多くは専用の製塩土器を用い、海水に火をかけて煮詰め、塩を得る方式でした。塩は貴重な交易品であるとともに、古墳時代にはじまった馬の生産にも必須のものでした。

 海民の墓制

 海岸部からは、海蝕洞穴を利用した古墳時代の墓がみつかります。そこでは船を棺とし、千葉県大寺山洞穴などでは前方後円墳に匹敵する鉄製甲冑や馬具、装身具等が副葬されていました。海民の長のなかには古墳を築造せず、海を臨む葬地に墓所を定める者がいたのです。魂の行き先が海の彼方にあるとする、海上他界の観念の存在も指摘されています。横穴式石室に絵を描いた装飾古墳には被葬者が船に乗る図像があり、古墳の埋葬施設にも舟形の木棺が存在するなど、葬送と船には密接なかかわりがあったようです。

(参考文献)

若狭徹「海民の考古学」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年