にわか考古学ファンの独り言(古墳時代その②)

 古墳時代の実際(社会景観)

 古墳時代の社会の姿を、火山灰に埋もれた群馬県榛名山麓地域の遺跡群の発掘調査から復元してみます。地域の中心には首長居館(三ツ寺I遺跡)があり、それを核にして、周囲にムラが展開しています。ムラには黒井峯遺跡にみられたような竪穴建物や平地建物が群在した景観が推定され、倭人とともに渡来人の存在も確認されます。

 水源地にある居館を拠点として広域の治水が行われ、低湿地に用水を効率的に配分し、広大な水田が営まれています。水源地より標高が高い山麓部には、畑作地帯や牧が開かれ、多角的な土地利用が実践されました。また、水源地のすぐ近くには、首長が眠る前方後円墳や、首長を支えた中間層の墓である群衆墳が築かれています。丘陵地には須恵器や埴輪の窯が築かれ、盛んに煙を上げています。こうした社会像は、列島の有力首長の傘下の地域において、規模の大小は別としてもおおむね普遍化できるものでしょう。

 奈良県の南郷遺跡群では、もっと大規模な王権中枢の社会景観が明らかにされています。後に葛城氏とよばれる大豪族の膝下の社会様相です。奈良盆地の南西部、金剛山東麓の丘陵地から低湿地にまたがる地理環境に南郷遺跡群があります。低湿地では森林が開かれ、水田が広く営まれており、低地にのぞむ盆地端部には巨大前方後円墳である室宮山古墳や掖上鑑子塚古墳(150m)が築かれました。背後の丘陵上には群衆墳(巨勢山古墳群など)が造られ、大首長配下の集団墓所となっていました。

 丘陵の裾には、斜面に石を貼った首長居館(長柄遺跡)がみつかっています。そこから丘陵部に上がると、集落や工房群が展開しています。最も高所の極楽寺ヒビキ遺跡には、石を貼った基壇の上に、祭儀用の高層建物(高殿)が配置されていたことが明らかとなりました。この高殿は古墳出土の家形埴輪と類似し、埴輪が実在の建物を写した可能性も考えられます。谷に降りると、導水祭祀をおこなった施設(南郷大東遺跡)が設けられていました。

 なかでも、丘陵上の遺跡群の構成は重要です。そこには、中間層の居宅、工人の集落や墓所があり、大壁住居の存在から渡来人技術者も住んでいたことがわかります。ここでは、多様な手工業生産の痕跡を見いだすことができます。南郷角田遺跡では、金・銀・銅・ガラス製品、鹿角製品、鉄製品の依存から、これらを複合し、金工を駆使した武器制作工房の存在が推定されています。このほか、鉄製農具をつくる集落、玉造り集団の居住を推定させる資料、製塩土器の存在から推定される塩の流通など、多様な活動が復元できるのです。

 このように、ヤマトの主要地域のひとつである葛城地域の遺跡群構造がわかってきたことは、古墳時代研究にとって極めて重要なことです。渡来人と手工業を掌握した中央政権の具体像が、次第に明らかになろうとしています。

(参考文献)

若狭徹「古墳時代の社会景観」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年



 

にわか考古学ファンの独り言(古墳時代その②)

 小区画水田について

 古墳時代における生業の基本は農耕でしたが、田や畑の跡を発見するのはなかなか困難です。竪穴建物などは地面を深く掘り込むためその痕跡が残りますが、農地は日々耕され、一旦放棄されるや急速に風化してしまうからです。しかし、発掘調査の激増で低地部の調査が進むと、火山灰や洪水に埋もれた農業遺跡の発見例が増加してきました。

 水田

 古墳時代の水田は、今日と同様、アゼで区画し、水をたたえるように設計されています。度重なる噴火により各時期の水田が重なって見つかった群馬県同道遺跡の事例をみると、古墳前期の田は一辺が10メートル内外の大区画で不定形な形状でしたが、中期になると一枚が二畳ほどの小区画の水田が出現し、これを規則的に見渡す限り連ねていく水田景観が生まれました。そして平安時代には再び大区画に戻っていくのです。

 小区画水田は、古墳時代に広くみられることから、効率的な農法として伝来したものと推定されます。いわば平野の棚田であり、小区画を連接することで土地の起伏に沿ったきめ細かい用水の運用を可能としたのです。火山灰でパックされた群馬県下の事例でみると、太いアゼで囲われた大きなブロックが基本の経営単位であり、その中を傾斜に即して小さく区割りしています。しかも、小区画のアゼは毎年壊し、田面に草の鋤き込み(刈敷)をおこなうことで養分を補給した後、再び配水を確認しながらつくり直されることがわかっています。絶妙に掛け流された用水は、大ブロックの末端で集められて次のブロックに送られます。

 当時の水田では、規則的に並んだ稲株の跡がみつかります。このため田植えが行われた可能性が高く、苗の生育は集落の特別な畑(陸苗代)でおこなわれたと考えられます。またこのころから鉄鎌が普及するため、稲刈りは鉄鎌でおこなわれたとみられます。収穫法には穂首刈と根刈がありますが、古墳時代には藁打ち用の気槌が多く出土するため稲藁の利用が進んだと考えられられ、根刈が普及した可能性が指摘できます。

 

 火山灰に埋もれた畑では、一定幅で溝を切り、畝立てした今日の畑と同じような景観がみられます。陸稲やムギ、栗などの雑穀の栽培とともに、桑・麻など紡織にかかわる作物の栽培もおこなわれたことが科学的分析からわかります。その他の畑作物はなかなか明らかになりませんが、万葉集などにみるように、芋・采・豆など多様な作物が栽培されたと推定されます。このように、水田の営めない乾燥地も、広大な畑作地として利用されていたのです。

 家畜・家禽

 弥生時代以降、豚の存在が指摘されており、『日本書紀』には猪飼集団がいたことが書かれています。古墳後期には馬鍬・唐鋤の出土例が増え、家畜の農耕利用がはじまったと考えられます。また、牛形埴輪が稀にみられることから、牛が王に占有されていた可能性が指摘できます。奈良時代の貴族は貴重な乳製品を食べていましたが、それが古墳時代に遡る可能性も否定できません。家禽としては鶏が知られ、埴輪にも造形されています。

(参考文献)

若狭徹「広がる小区画水田」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年

 

にわか考古学ファンの独り言(古墳時代その②)

 居館と水利について

 古墳時代に先立つ弥生時代には、戦乱に備えて深い溝を巡らした環濠集落が築かれ、地域の中核となっていました。西日本の環濠集落のなかには、ムラ人の家とともに首長の住まいや祭殿とみられる大型建物があり、やぐら、倉、工房などが設けられた例もみられます。

 古墳時代になると環濠集落は消滅し、首長の住まいは集落から独立します。古墳前期の奈良県纏向遺跡では大型建物が並んで検出され、首長居館が早くに成立したことが明らかとなりました。大阪府法円坂遺跡などでは、規則的に並んだ倉庫群(中期)がみつかっており、穀物や財物を納める一大倉庫群が設置されていたことを示しています。

  群馬県三ツ寺I遺跡(中期)は、山麓水源地に進出した有力首長の居館です。石を貼り、各所に張り出しを設けた90メートル四方の館が、広い濠で囲まれています。柵で囲われた内部空間には大型建物、井戸、水道橋(掛樋)で水を流し込んだ石敷きの導水祭祀場、従者の家、工房があります。湧水をせき止めた濠は貯水池となっており、堤防・堰の築造をともなう高い治水技術が投じられています。その背景に、大規模な灌漑事業・農業水利事業の実施が推測されますが、これは新たな渡来系技術の獲得によって実現したものです。水利事業は、湧水の掌握、川の制御、水路の開削、貯水池の築造、掛樋の構築、小区画水田による用水運用が一連となっており、これに導水祭祀というソフトウェアがセットになっています。居館は、こうした地域の農業経営並びに地域祭祀の拠点として機能したのです。

 ところで、水に関わる祭祀施設は、近年ヤマト地域を中心に発見例が増加しています。三重県城之越遺跡では水源を加工し、石を貼って清浄にしつらえた祭祀施設がみつかりました。奈良県南郷大東遺跡では、谷間に小さな池を造り、そこから上澄みの水を桶で導いて槽に受け、祭祀をおこなう施設が検出されました。奈良県南紀寺遺跡から井泉の水を導いた玉石敷きの広大な空間がみつかっています。

 最近出土例が増えた、前方後円墳の造出に置かれた家形埴輪群も、首長居館を考える材料になります。奈良県赤土山古墳の袖には石張りの区画が設けられ、平地建物・高床建物・高床倉庫を象った埴輪が並んでいます。区画部には張り出しや谷も表現されていて、三つ寺I遺跡のあり方をほうふつさせます。谷底には水をまつる建物も造形され、居館の実際がよく反映されています。

 こうしてみると、外来の新技術によって水利と農業を刷新し、水を納めまつることが、倭の大王と首長らに共有された先進の地域経営スタイルであったと推定されるのです。水利事業をすすめる豪族たちが共有したこうした祭式は、前方後円墳での祭式と同様に、ヤマト政権のメンバーシップの証だったと考えられます。

(参考文献)

若狭徹「居館と水利」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年

 

にわか考古学ファンの独り言(古墳時代その②)

 渡来文化(古代の韓流ブーム)

 渡来文化には、技術のほかに思想や制度など無形のものがありましたが、モノを対象とする考古学ではなかなか実証できません。しかし、その表現手段である文字資料の存在から間接的に類推することは可能です。代表例は、埼玉県埼玉稲荷山古墳や熊本県江田船山古墳出土の刀剣に刻まれた文字で、大王に奉仕した豪族の家系や職名が表示されています。また、中国の歴史書には、五世紀に倭の五王が宋と文書外交をおこなったことが記されていますが、こうした文字の運用方法を教えたのも渡来人にほかなりませんでした。渡来系氏族は以後王権において重用され、外交や国家システム形成の媒介者となります。

 このころ登場した生活に密着する渡来文物に「竈」があります。それまでの火所はずっと炉でしたが、五世紀には伝来したばかりの竈に首座を譲ります。焼物性の移動式竈と、住居の壁際に粘土でつくり付けられた固定式竈が出現し、瞬く間に列島中に普及したのです。この厨房具は効率が良く、使い勝手が良かったのでしょう。竈で用いられる蒸器(甑)も普及し、餅米をはじめとした蒸し料理が食卓をにぎわせるようになったことを教えます。また蒸し米を乾燥させ干飯(糒)を保存携行食として多量に作ったとする説もあります。厨房施設及び調理法という庶民の生活レベルにまで、外来文化が浸透したことは、古墳時代の大きな特色です。最大の韓流ブームは、このときまで遡るのです。

 渡来文化のなかでも注目されるもののひとつが馬の生産です。三世紀に書かれた『魏志倭人伝』には「倭に牛馬なし」とされており、馬具の出土開始の時期から見ても、馬は古墳時代前期末から中期に日本にもたらされたと考えられます。倭は四世紀後半から朝鮮半島で軍事行動をおこないますが、そのときに馬の効用を知ったのでしょう。華麗な馬具を飾った駿馬は、王たちの憧れでもありました。

 ところで馬は単体で存在したのではありません。馬の生産は、馬と、馬を飼育調教する技術者、生産・出荷管理システムとその管理者、広大な牧、馬の生育に必要な大量の塩の調達、馬具生産システム(木工・金工・統治・皮革加工)を組み合わせた総合産業でした。牧とみられる遺跡からは渡来系遺物が出土し、生産開始には渡来人の関与が明らかです。

 馬は、豪族の権威の象徴として用いられるとともに、軍事用・農耕用・荷役用・情報伝達用に広く運用されました。馬の利用で、人力から畜力へとエネルギー利用の幅が大きく広がったのであり、さながら今日の自動車産業の開始に匹敵します。古代馬の生産地は、畿内では大阪平野が知られますが、広大な土地が必要なため東国の伊那谷や上毛野での生産にシフトし、のちの東山道ルートで畿内にもたらされたと考えられます。

 なお渡来人は、これまで西日本中心に居住したとみられてきましたが、近年では上毛野を中心とした東国でも、墓や土器、馬関連の遺物など渡来人の足跡が発見されています。

(参考文献)

若狭徹「古代にもあった韓流ブーム」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年

 

にわか考古学ファンの独り言(古墳時代その②)

 前方後円墳の実像

 こんもりした丘に木々が生い茂った姿、あるいは頂上に神社の社殿を乗せた姿、これが現在の古墳の一般的な外観です。多くの人々は郷土の風景に馴染んだこのようなあり方が、古墳の本来の姿だと捉えていることでしょう。

 しかし、考古学者が古墳の発掘調査で表土を取り除くと、一部は崩れているものの、斜面全体を覆った貼り石(葺石)があらわれるのです。石を貼った斜面は二~三段に築かれており、その間には平坦なテラスがあって、赤茶色の円筒埴輪が一列に並んでいます。

 白く照り輝く石の山、一文字に貫く赤い埴輪の列、古墳の周囲に堂々と巡らされた広大な濠。このようなビジュアルこそが築造時の古墳の姿なのです。まさに日本のピラミッド。古墳文化の中核となったヤマト地域、西日本一帯、東日本の東海地域や上毛野地域などでは、こうして飾り立てられた姿が、古墳の基本的な仕様として共有されていました。

 もちろん、その他の地域にも大きな前方後円墳がありますが、いままで述べたような過剰な飾り(葺石や埴輪)を完備した事例はそう多くありません。けれどもそうした地域にも、ときにはフル装備した画期的な古墳が造られる場合があります。千葉県の内裏塚古墳(墳丘長144mや山梨県の甲斐銚子塚古墳(169m)、宮崎県の女狭穂塚古墳(180m)など、それぞれの地で最大の前方後円墳がそうであり、このときヤマト王権ときわめて強い関係を結んだ首長が出現したことがわかります。

 こうした派手で象徴的な古墳の姿は、ヤマト王権と連合する首長にとって、あるべき理想の墓の姿としてイメージされたのでしょう。たとえ墳丘長が同じでも、膨大な葺石や数千本もの埴輪、広大な濠を装備するか否かで、そこに投入された経済力・動員力には相当な差が生じます。古墳から地域力を押し計る研究では、それらを考慮することが必要です。

 ところで古墳の立地は、丘陵の最高所や大地の突端、扇状地の裾など、遠くからよくみえる地点が選ばれます。石を貼った外観はひときわ目立ったことでしょう。交通(陸上交通・水上交通)の要衝に造られることも多く、首相の配下の人びとや他の集団にアピールする意図が読み取れます。また、新規に開発する目的地に造られる場合もあります。築造地に人びとや物資を結集させ、開発推進のシンボルとしたのでしょう。古墳とは単なる墓にとどまらず、地域や共同体にとっても重要な記念物だったのです。その存在によって、人びとの心をひとつにまとめ、社会の秩序を維持するシステムが働いたと考えてよいでしょう。

 ヤマト地域を中心として同じ設計図を引いた前方後円墳が各地に広がっています。それを共有した首長の連合体がヤマト政権であり、そのネットワークを伝って情報がもたらされ、鉄器の原料となる鉄素材や様々な威信財が各地の流通しました。その範囲こそが、外国からみた「倭」の領域だったと考えられます。

(参考文献)

若狭徹「前方後円墳の実像」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年

 

にわか考古学ファンの独り言(古墳時代その②)

 ヤマトの王と地方の王 

 古墳の種類や副葬品・埴輪については、古墳時代編で述べていますので、別の視点から古墳について書きたいと思います。

 巨大前方後円墳の大半はヤマト地域にあります。しかし地方にも突出した規模の古墳があり、なかでも吉備(岡山県)と上毛野(群馬県)の古墳は時代を通じて卓越し、倭の小中心を形成していました。吉備では造山(360m)、作山(286m)、両宮山(206m)、金倉山(165m)、神宮山(150m)など、上毛野では太田天神(210m)、浅間山(172m)、別所茶臼山(168m)、七輿山(146m)などが代表的な古墳です。多くは中期前半の築造で、最上級の長持形石棺をもつ古墳もあります。両地域とも農業や手工業による生産性が高く、交通の要衝であったことが知られています。吉備は弥生後期から瀬戸内海沿岸の文化的中核を担い、上毛野は北方世界(後の蝦夷)との領域境界ににあたりヤマト政権の東方拠点としても重視されました。

 このほか、大隅(鹿児島県)、日向(宮崎県)、筑紫(福岡県)、播磨(兵庫県)、丹後(京都府)、尾張(愛知県)、甲斐(山梨県)、総(千葉県)、常盤(茨城県)、陸奥宮城県)などでは、ある時期に限って150mを越えるような大前方後円墳が造られました。そのときどきに、重要な役割を担って王権と結んだ有力者が存在したのです。

 例えば日向では中期前半に女狭穂塚古墳、男狭穂塚古墳(175m)の大型古墳が造られました。日向は、『古事記』などに天皇の祖が天から降り立った場所とされており、この時期に王権と特別な関係を結んだと考えられます。筑紫は弥生時代から大陸文化の玄関口として栄えてきましたが、後期初頭に岩戸山古墳(135m)が成立しました。『日本書紀』には、筑紫君磐井が新羅と組んで王権(継体大王)の兵を阻んだことが記されており、岩戸山はこの磐井の墓と推定されます。この地域では、古墳に石人・石馬を埴輪のように立てたり石室内に装飾画を描くなど、独特の文化を発達させています。

 播磨には前期後半の五色塚古墳があり、瀬戸内海の海運を掌握した王の墓とみられます。同様に、日本海の海運基地である丹後にも前期末から中期初頭の網野銚子山古墳(198m)・神明山古墳(190m)があり、物資流通を差配した首長の存在が知られます。尾張には、後期初頭に断夫山古墳(150m)が造られました。継体大王に妻を差し出し、王権を支えた尾張連氏の祖先の墓とみられています。甲斐には前記後半の甲斐銚子塚古墳があります。農業生産が高くない内陸盆地に位置しますが、日本海側と太平洋側を結ぶ交通の結節点として、一時期、王権に重視されたと考えられます。

 関東では、太平洋の海上交通の拠点である上総に内裏塚古墳があり、後の東海道ルート上の霞ケ浦沿岸には中期前半の船塚山古墳(186m)が存在します。船塚山の主は、巨大な内海だった香取海の水上交通を押さえていたと推定されます。東北では仙台平野に中期前半の雷神山古墳(168m)があり、仙台湾を望む段丘上の要所を占めています。

(参考文献)

若狭徹「ヤマトの王と地方の王」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年

 

 

にわか考古学ファンの独り言(古墳時代その②)

 古墳文化のプロローグ

 古墳文化は、三世紀中ごろから六世紀末ごろまで、日本列島の中央部に栄えた文化です。同じごろ、沖縄・南西諸島には貝塚後期文化が、北海道には続縄文文化が存在していました。南北に長く、気候が異なる日本列島には三つの文化圏が並んだ栄えていたのです。南と北の文化は狩猟・採取によって社会を維持していましたが、古墳文化はそれと異なり、農耕と手工業を組み合わせた生産社会を生み出しました。前身である弥生文化をベースとして、階層を発達させ、国家への道のりをたどっていった文化だったのです。

 考古学者は、古墳文化がつづいた時間帯を古墳時代として括りますが、具体的には前方後円墳の出現と終りを目安としています。なぜ前方後円墳かといえば、それが単なる墓にとどまらず、政治や社会を維持するために大切な役割を果たしていたと考えられるからです。

 では、最初の前方後円墳はどれでしょうか。学者によって意見が分かれます。円形の墳丘に方形の張り出しをつけた前方後円墳の祖形は、弥生時代後期後半(二世紀)の岡山県楯築墳丘墓(墳丘長80m)からはじまりました。同じころ、山陰から北陸にかけての日本海側では、方形を基調にした台状墓や四隅突出墓が造られ、段丘に石を貼り、玉や鉄製品などの副葬品が納められました。東海地方などでは、方形の墳丘に張り出しをつけた前方後方形の墳丘もあらわれました。弥生時代の王たちは、こうして各地で墓づくりを競い、地域色を鮮明にします。

 三世紀前半には、奈良盆地南西部に段丘長が100mにおよぶ前方後円形の墳丘墓(纏向石塚墳丘墓など)が出現。やがて三世紀中ごろになると、同地区に隔絶した大きさの箸墓古墳(280m)が成立します。三世紀前半の段階からを前方後円墳とする意見もありますが、この画期的で巨大な箸墓古墳をもって、定式化した前方後円墳の成立(古墳時代の開始)とする意見が学会の主流です。

 古墳時代の開始年代は、箸墓と同時期の古墳から出土した中国製の紀年鏡(鋳造年号が記された鏡)の年代検討や、理化学的分析から得られた暦年代を合わせて推定しています。後者は、古墳出土の土器に付着したススやコゲの分析から年代を求める放射性炭素年代測定法(AMS法)と、遺跡出土樹木の年輪の測定から年代を定める年輪年代法を組み合わせて精度を高めています。このことから三世紀中ごろの年代観はほぼ動かないとみられます。

 『魏志倭人伝』の記述から、女王卑弥呼の亡くなった年は247年ごろと考えられます。これはまさに三世紀中ごろ。箸墓古墳の築造推定年代に近いので、この古墳を卑弥呼の墓とする説が有力です。つづいて箸墓古墳と同じ形をした、やや規模の小さい前方後円墳が西日本各地につくられます。このとき、前方後円墳を共有した豪族たちの連合(ヤマト政権)が成立したと考えられるのです。

(参考文献)

若狭徹「古墳文化のプロローグ」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年