にわか考古学ファンの独り言(旧石器時代)

 黒曜石を求めて

 今から4万年ほど前、列島にやってきたホモ・サピエンスたちは、鋭敏な資源探査感覚をもって黒いダイヤ、すなわち黒曜石を発見しました。その鋭い割れ口は、ガラスのかけらのようで、狩りに、調理に、工作にと威力を発揮しました。

 その後の縄文人たちは、原産地に採掘坑を穿って黒曜石を採取したようですが、旧石器人たちはむしろ採掘のような労力をかけず、河原や露頭の表面に出た黒曜石を採取したものと考えられます。旧石器時代の黒曜石採掘坑は、今のところ見つかっていません。

 黒曜石の代表的な原産地は、北海道では白滝、本州では和田峠八ヶ岳、高原山、伊豆七島では神津島、島根では腰岳が知られ、旧石器に用いられています。ここでは中部関東地方の黒曜石利用のあり方を取り上げてみます。

 後期旧石器時代初頭、3万2000年前以前の長野県日向林B遺跡では、数多くの台形様石器に和田峠産黒曜石が用いられていることが蛍光X線による産地推定から判明しました。同じ時期の関東の遺跡からは、栃木県高原山、太平洋上の神津島産の黒曜石も見つかり、これらの原産地が、いずれも後期旧石器時代初頭にすでに開発されていたことがわかります。

 ただこれ以降、時期を追うにつれて、黒曜石利用が飛躍的に伸びるというわけではありません。むしろ産地の黒曜石が使われなくなる時期もあります。たとえば相模野台地では姶良Tn火山灰が降る前はさかんに信州産黒曜石が使われていましたが、その降灰後信州産の黒曜石はばったりと消え、かわって天城・箱根産黒曜石の利用が増加します。

 この頃は、酸素同位体ステージ2のかなり寒冷な時期にあたり、標高1500m以上もある信州の黒曜石原産地に容易に立ち入れなくなったため、質は落ちるものの相模野から遠くない天城・箱根産の黒曜石が用いられたのだとも説明されています。

 各産地の黒曜石は、通常100から150mほどの圏内に供給されていることが産地推定からわかります。石は自ら動かないので旧石器人が運んだことは間違いありませんが、どのように黒曜石を入手したのでしょう。人びとが直接遠方の原産地に黒曜石を採りに行ったという「直接採取説」、集団間の交換をへて黒曜石が遠くまで流れたという「交換説」、広域の誘導スケジュールの中で原産地の近くに立ち寄った折に黒曜石を採ったという「埋め込み戦略説」があります。あるいはそれらの方法が組み合わされたのか、議論が続いています。

(参考文献)
堤隆「黒曜石を求めて」『旧跡時代ガイドブック』新泉社2009年