にわか考古学ファンの独り言(縄文時代その②)

 クリ林について③ 下宅部遺跡

 下宅部遺跡は1994年から2002年まで調査された遺跡で、北側に狭山丘陵の末端にあたる丘陵部があって、南側に河道部があります。縄文時代中期の段階では、まだクルミ塚とごく小さな水場ぐらいの遺構しかありません。一番盛んにこの河道部が使われていた縄文時代後期の段階になると、第7号水場遺構をはじめとして何基もの水場遺構や、杭列などがつくられました。この河道は一旦、晩期初頭あたりで埋まってしまい、その後、晩期の中葉にかけてその上に小さな流路ができて、それに沿って小さな遺構がつくられました。

 では、下宅部遺跡で当時の人びとはどのように木を使っていたのでしょうか。まず後期前葉段階には、第7号水場遺構という一番大きな水場遺構がつくられており、これにはクリが50%ぐらい使われています。先に提示した関東地方の縄文時代後・晩期の三つの遺跡の例と、比率的には変わりません。ところが、晩期の頃につくられた第10号水場遺構のように、小さな遺構を造るときには、クリの比率が大幅に減り、いずれも25%以下で、クリに加えてウルシやカエデ属などが使われています。たとえば、杭列KA1-5と名付けられた遺構は、ウルシの杭が多数見つかった縄文時代後期の杭列で、そのうち500点ほどの杭の樹種を固定しました。その結果、クリが一番多くてほぼ100点と20%前後を占めていますが、その他にウルシ68点をはじめとして、それ以外のさまざまな樹種もたくさん使われています。すなわち、この杭列ではクリよりも他の樹種をはるかに多く用いています。

 すなわち遺構の規模や、遺構をどのくらいの期間使うかといったことによって、クリを使うときとクリを使わないときというのがあるのではないかということが、下宅部遺跡における樹種の選択からみえてきました。クリの木材は腐りにくく、比較的割りやすくて加工しやすいため、木材としても重要な資源です。一方、果実も重要な食料資源ですので、住居や水場遺構といった構築物をつくるにあたって、やはり何でもかんでもクリを使うのではなく、それなりの目的によって縄文人は樹種を使い分けていたのではないか、ということがまず一つみえてきました。

 では、そのクリ林はどういう林だったのでしょうか。下宅部遺跡で出土した遺構に使われていた木材の年輪数と直径の面から検討してみます。まず年輪数でみると、平均的にはだいたい8~10年程度の木が多いのですが、全体的にひじょうに幅が大きく、30年に達するものもあることがわかります。先ほどのべた近代の薪炭林の例だと25年から30年で伐採されていましたが、縄文人がたとえば10年サイクルで伐ったとしても、これほどピークの不明瞭な年齢構成にはならないわけです。

 次に直径をみてみますと、平均6~8センチと比較的小さな木が多いのですが、変動幅がかなり大きく、薪炭林をベースにわれわれが考えていたモデルというのが、縄文時代にはまったく当てはまらないことがわかります。現代人では考えられないような、はるかに柔軟な森林管理をしていたのではないかということが、こうした年輪数と直径の分布からみえてきます。実証はできませんが、縄文人はおそらく少しずつクリが多い林を集落の周辺に仕立てていき、その中でクリを一斉に伐るのではなく、適宜必要な大きさを抜き取伐って利用するという形で森林を利用していたのではないでしょうか。

(参考文献)

工藤雄一郎「下宅部遺跡からみえてきたこと」

     『ここまでわかった!縄文人の植物利用』新泉社2014年