にわか考古学ファンの独り言(弥生時代その②)

 隣の芝生は青かった?

 縄文時代に比べて、圧倒的に争いの痕跡が多く見つかっているのが弥生時代です。やむに止まれず争いに発展することもあったはずですが、その原因は、そもそも争いの種になることが目に見えて増えたからだとも言えそうです。

 例えば、米倉。弥生時代になるとコメは食料という機能だけでなく、富の象徴にもなります。その視点で隣の集落をみると、同じくらいの規模なのに、自分たちの集落よりも米倉が多い。なんでうちの集落は隣よりも米倉が少ないの?もっと働いて、もっと頑張って、たくさんのコメが欲しい。他にも、よその集落の首長は、見たことのない装身具を身につけている。大陸のものだろうか?オレはあれよりも、もっと良いものを身につけたい。力を見せつけたい。なんていうことを思ったかもしれません。

 もちろん人間ですから、縄文人にも欲望や欲求という気持ちはあったはずです。しかし、出土しているものから見ても、弥生時代になると人の欲求を刺激するモノや事柄が圧倒的に増えたように思います。

 コメの生産によって計画的な食料確保が可能になり、結果、心に余裕が生まれ、人のことがうらやましくなったり、比較する機会が増えたのかな、などと想像してしまいます。それは今の私たちとちっとも変わらないと思います。これはあくまで、支配する側、つまり集落の首長たちの話ですが、「もっともっと」という気持ちが強く、そして大きくなっていったのが弥生時代だったのかもしれません。

 稲作作りをやめた人々

 弥生時代と言えば、水田稲作が日本列島に広がった時代として認識されています。ところが、多くの発掘調査が行われる中で、そうともいいきれない事例が見つかるようになっています。例えば、青森県田舎館村の垂柳遺跡に暮らした人々は、およそ300年間続けた水田稲作を、大洪水によって田んぼが水没したことを契機にやめてしまいます。その後はまた、狩猟採取分化が津軽海峡を渡ってこの地で再び復活するのです。

 やめた理由として、研究者の藤尾慎一郎さんは『弥生時代の歴史』の中で、水田稲作を行う目的が違ったのではないかと記しています。つまり、環濠集落を作り人々を統治しようとする社会にとって、水田稲作は食料確保と共に、社会を維持するためのシステムとして必要だったのではないかというのです。

 銅鐸を使い、縄文時代とはまったく違う祭りをするためには、水田稲作をやめるわけにはいかなかった。対して、垂柳遺跡の人々は縄文文化以来の道具や土偶を使って暮らしながら、水田稲作もする。つまり、社会システムを根本的に変えることなく、食料選択を増やす一環として水田稲作をしていたのではないかと考えられるようです。そうであれば、洪水によって水没した田んぼをあっさり捨て去り、違う場所で水田稲作を継続し続ける西日本の人々とはまったく違う理屈によって、稲作に従事していたことになります。

 そう考えれば、弥生人がどうしてあんなにもコメにこだわったのかがわかるような気がします。水田稲作には、民衆を統治支配しようとする人の思惑も絡みあい、食料確保以上の意味を持っていた社会に根付いたのかもしれません。

(参考文献)

譽田亜紀子「隣の芝生は青かった?」「米作りをやめた人々」

     『知られざる弥生ライフ』誠文堂新光社2019年