にわか考古学ファンの独り言(弥生時代その②)

 争いのはじまり

 日本列島では、弥生時代になって、富や食料などを巡って争いが始まったと言われています。弥生時代には、コメという富の発生に加え、土地や水を巡る争いなど、人と争う火種の要因が多くあり、そこに背景がありそうです。それを証明するように、弥生時代のはじめ頃は九州北部で争いの痕跡がみられ、水田稲作の広がりと同様に、西日本を中心に広がっていきました。

 弥生時代の遺跡からは、数々の争いの痕跡が見つかっています。例えば、福岡県スダレ遺跡からは、石剣の先端が胸椎に刺さった状態で亡くなった男性の骨が出土しています。さらに、20本の矢を受けて亡くなった人の骨(福岡県清水谷遺跡)や、石剣の切っ先が5本、石鏃が10本というように、これでもかといわんばかりにさまざまな武器を打ち込まれた状態で亡くなった人の骨(京都府東土川遺跡)なども発見されているのです。なんとも壮絶な戦いが繰り広げられていたのだなと驚きますが、これらは争いの痕跡のごく一部にすぎません。中には首を狩られて埋葬されている人や、鈍器のような凶器で顔を潰されている人もいます。時期や場所に違いはありますが、縄文時代には見られないような凄惨な状態で埋葬されている人骨が見つかるのは事実です。

 では、弥生人は本当い戦いが好きな人たちだったのでしょうか?それを考古学の遺物から知ることはできません。しかし、実際に多くの武器や殺傷人骨が見つかっているのですから、戦いが好きか嫌いかは別として、戦わなければならない理由があったはずです。いちばんの理由は、「水」と「土地」です。水田稲作を生業にしていた彼らにとって、水の確保は死活問題です。もしも同じ川を使って田んぼに水を引いている上流の集落が、水を独り占めしてしまったらどうなるでしょう。下流に暮らす人たちの田んぼには水が入らず、自分たちの暮らしも干上がってしまいます。

 同じように、土地の問題も重要です。食料事情が良くなれば人口は増えます。人口が増えるということは、食料もたくさん必要になるということですから、それを育てるための新たな田畑が必要になるのです。ひと口に「土地」と言っても、稲が良く実るところもあれば、そうでないところもあります。できるなら良い土地が欲しいと思うのは世の常でしょう。他にも天災や凶作で食料が十分に得られないこともあり、それでは集落の人々は飢えてしまいます。

 こうした食料確保にまつわる様々な要因が、周辺の集落との間に軋轢を生み、争いを生み出したと考えられます。もし、それが本当なのだとしたら、弥生人は戦いが好きな人々とは言えません。誰も好き好んで人の命を奪いたいわけではありません。いつの時代も人は、生きることに命懸けだということです。そして、これが後に大きな権力を持つための大きな争いに発展していくのです。

 そして、支配するものと、支配されるものが生まれる階級社会の登場も、弥生時代の特徴のひとつです。もともと集落のリーダーだった人が、田作りを通して指導力や決断力を発揮し、信頼をそれまで以上に集め、人びとの心を掴んだのが始まりでした。時には自分の集落を飢えから守るために、隣のムラを襲って食料を奪うこともあれば、逆に食料を襲われないよう、環濠となるような防御のムラ作りをしました。

 彼らは対外的な力だけでなく、ムラ内でも支配力を一層強め、いつしか揺るぎない地位を獲得してきました。そうなると、もう勢いは止まりません。近隣のムラを話し合いや、場合によっては争いによって従属させ、従属させた人々から食料や労働を提供させるということもありました。魏志倭人伝には税金のようなものがあったことも書かれています。こうしてより大きく強いムラ、そして巨大な力を求めた支配者たちが各地で生まれ、次第にクニと呼ばれる勢力に発展していきました。

(参考文献)

譽田亜紀子「争いのはじまり」「壮絶な争いの痕跡」「支配するもの、されるもの」

     『知られざる弥生ライフ』誠文堂新光社2019年




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