にわか考古学ファンの独り言(縄文時代その②)

 縄文人の集落

 わたしたちが実際に目にする集落遺跡というのは、その集落の縄文人が住居を新築したり、改築したり、増設したり、あるいは廃居にしたりするという、彼らの活動の痕跡が時間の経過とともにつぎつぎと重なり合ったものを、発掘という手段によって明らかにしたものです。ですから、例えば100棟をこえるような住居跡が発見された大規模な集落遺跡でも、それらを詳細に分析してみると、時間によって大きな変化があって、そのなかには1棟だけしかないということもめずらしくはないのです。

 縄文時代の住居が1棟ごとに世帯として独立し、そこでの家族構成が1組の夫婦とその子供からなる単婚家族を基本としていたことからすれば、1棟の住居だけの集落というのも、決して不思議なことではないのです。事実、全国各地の開発にともなって、大小さまざまな集落遺跡が発掘調査されていますが、そのなかには住居跡が1棟だけしか発見されないというのも、今では珍しくなくなっています。

 縄文時代全般をとおしてみると、集落の一時期の住居数は3棟前後という例が、じつはもっとも多いのです。そこでは、親子二世代が、多くて孫までの三世代の親族によって集落が構成されていたことになるます。それが親族群として、もっとも強い絆をもつとともに、日常の生業活動などでも支障がおこらない範囲での、いわば縄文集落の基礎的な集団のサイズであったと考えられます。

 一方、拠点となるような規模の大きな集落になると、住居数は一時期に10棟から多いものでは数十棟になります。こうした拠点集落の特徴は、住居群が親族ごとにいくつかのグループにまとめられるとともに、それらが全体として中央の広場を囲んで環状に配置される、いわゆる環状集落とよばれる定型的な集落形態をとります。そして、中央の広場には、埋葬施設、貯蔵施設、屋外の共同調理施設、祭祀的な施設とみられる遺構などがともないますので、中央の広場は各種の共同作業や行事・祭祀の場として、集団が共同生活を営むためになくてはならない必須の場であったことがわかります。つまり中央の広場こそが、複数の親族からなる集落にあって、円滑な共同生活を送るための装置としての役割をはたしたのです。ですから、集落の規模が大きくなれば、当然、それらの装置も大きくなるので、青森県三内丸山遺跡の巨大な木柱遺構や大規模な盛土遺構も、そうした共同体を維持するための装置と考えることができるのです。

 縄文集落は、大規模か小規模かと、しばしば議論されてきました。しかし、そうした二者一択的な理解ではなく、自然環境が良好で食料資源に恵まれた時期には、複数の親族が集まって大きな集落を営み、それが不足するような事態になると、個々の親族に集落を分割するというように、大小を使い分ける集落構造の仕組みこそが、限りある自然物と環境の変化に巧みに対応し、縄文社会の長期の安定化を促したのです。

(参考文献)

勅使河原 彰「縄文人の集落」『縄文時代ガイドブック』新泉社2013年