にわか考古学ファンの独り言(縄文時代その②)

 縄文社会の交流

 世界の民族誌の研究によれば、採取狩猟民が食料などの資源をえている広さは、距離にして半径約10キロ、時間にして歩いて2時間の範囲であるということです。それを参考に縄文人の生業活動の広さを考えてみると、集落を中心に半径約5キロの範囲とみて、それほど大きな間違いはないものと思われます。では、縄文人の日常的な生活における人びととの社会交流も、そうした集落から数キロの範囲に限定されていたのでしょうか。

 そこで、縄文人の生業活動に欠かせない石器を例に考えてみましょう。一口に石器といっても、狩猟具である石鏃や石槍などの鋭利な刃先を必要とする道具には、黒曜石、サヌカイト、頁岩などの硬くて貝殻状の割れ口をもつ石材、植物質食料を製粉する道具である石皿や磨石などには、安山岩、閃緑岩、硬砂岩などのザラザラした多孔質の石材を用いました。一方、木材を伐採する石斧には、蛇紋岩、凝灰岩、粘板岩などの硬くて緻密な石材を用いるというように、縄文人は、石器の用途に応じて多種類の石材を使い分けていました。

 こうした縄文人が用いた多種類の石材は、集落の周辺からすべて供給できたわけではありません。たとえば武蔵野台地の遺跡からは、黒曜石で作った石器が出土します。この黒曜石は火山性の天然ガラスですので、その山地は特定の火山地帯に限られます。その原産地を調べてみると、長野県の霧ヶ峰産と東京都の神津島産が多く、そのほか神奈川県の箱根産や静岡県天城山のものなどがあります。また、装身具に用いた翡翠は、新潟県の姫川と青海川の周辺で産出されます。武蔵野台地の各遺跡から出土する翡翠も、この地方から供給されたものです。一方、石皿や磨石など製粉具に用いた砂岩や閃緑岩は、近隣の河川から供給された在地のものです。つまり縄文人が使っていた石材の供給は、遺跡付近に産出する在地の石材と遺跡から遠く離れた遠隔地の石材の組み合わせから成り立っていました。

 このように、石器に石材一つとっても明らかなように、縄文時代の社会では、移動する物資の流通・配付は集落ごとに個別におこなわれていたのではなく、そうした流通・配付の仕組みを集落の上位組織である村落が握り、そうした村落が主体となって、ほかの村落との折衝や情報の交換をおこなうなど、複雑で高度に組織化されていたのです。だからこそ、縄文人が必要とする多種類の物資が、広範囲で、かつ遠隔地のものも含めて、集落ごとに安定的に供給されていたのです。

 こうした村落には、必ず拠点となる環状集落があって、それが村落の中核となる役割を担っていました。ですから、環状集落における中央の広場というのは、ただたんにその集落の構成員だけでなく、村落の全構成員が結集する場の役割をもあわせもっていたのです。また、環状集落が解体され、集落が小型・分散化する東日本の後期には、秋田県の大湯遺跡に代表される大形の環状列石がつくられますが、それは環状集落での中央の広場にかわって、環状列石が村落での生活を円滑にするための役割をはたしたのです。

(参考文献)

勅使河原 彰「縄文人の社会」『縄文時代ガイドブック』新泉社2013年