にわか考古学ファンの独り言(縄文時代その②)

 縄文人の住まい

 竪穴住居については前に書きましたが、今回は住居の中身と家族構成について書きたいと思います。

 縄文時代の人びとは、旧石器時代の移動的な生活を脱却して、本格的に定住生活をはじめます。定住生活をするためには、当然、住まいが必要になりますが、縄文人の住まいは、高床のわたしたちの住まいとは違って、地面を掘りくぼめて床とした竪穴住居が基本です。

 その竪穴住居は、縄文時代全体をみると、時期や地域によって、ほぼ同じような形態をとるという特徴があります。たとえば早期前半の南九州の上野原遺跡では、この時期としては大きな集落が営まれています。この上野原遺跡の竪穴住居は、竪穴の面積が5平方メートル前後から10平方メートル以上と大小のバラつきがありますが、炉と柱穴が竪穴内になく、その柱穴も竪穴を取り囲むように外側から検出されるという珍しい形態をとります。同じ早期前半の南関東では、武蔵台遺跡で大きな集落が営まれます。ここでも面積は、小型と大型がありますが、小型のものは炉をもたないのに対して、大型のものは灰床炉という独特の炉をともなっています。ただし、住居の形態は、規模の大小にかかわらず、隅丸方形で壁の沿って柱穴をめぐらすという、同じ形態をとっています。

 このように、縄文人の住まいは、面積的には大小のバラつきがありますが、ほぼ同じような形態をとります。しかも、大小のバラつきは、住居構成員の人数などに対応する範囲におさまっています。つまり同じような形態の住居に、独立して住み分けるということは、その住居の構成員を「家族」とみるのが,もっとも合理的な考えといえます。

 では、実際のところは、どうだったのでしょうか。実証するのは難しいのですが、もう一度、竪穴住居から考えてみましょう。縄文時代の竪穴住居は、早期などの一時期をのぞけば、日常の暖房の場である炉をもち、石鏃や打製石斧、石皿、磨石などの生産用具や煮沸具としての土器を保有していることから、消費単位として独立した機能をもっていたことがわかります。また、縄文時代の遺跡からは、住居跡が一棟だけしか検出されない事例も決して少なくないことから、一棟が世帯として独立していたと考えられます。しかも、竪穴住居の床面積は、平均で約20平方メートルですので、複数の成人の男女が集合するような家族構成をとることは難しく、単婚家族的な小世帯の可能性が高いと思われます。

 一方、不慮の事故で同時に死亡したと想定される遺体が一つの住居に遺棄された事例が、全国で八例あることが報告されています。その性別と年齢構成などから住居の家族構成を推定すると、一組の夫婦とその子どもたちからなる単婚家族を基本としていたと考えられます。また、岩手県の上里遺跡からは、七体の人骨が一括して埋葬された縄文前期の土杭募が発掘されています。この七体の人骨を歯の比較研究から分析した結果、一組の夫婦とその子供からなる単婚家族であることを明らかにしています。このように傍証の域を出ないのですが、縄文時代の家族構成は、単婚家族を基本としていたと考えられます。

(参考文献)

勅使河原 彰「縄文人の住まい」『縄文時代ガイドブック』新泉社2013年