にわか考古学ファンの独り言(縄文時代)

 大形石棒について

 土偶とならぶ象徴的遺物として「石棒」とよばれる大形の石製品があります。縄文人の身長の半分以上の長さをもつのが普通であり、最大の例は2mを越えます。片手ではとても持ち上げることのできない長大で重たい石製品であります。傘型の頭部をもつタイプが多いことから男性の生殖器をかたどったものと考える人も多いです。この大形の棒状石製品を「石棒」と命名し、類例を集めて形態分類をおこなったのは鳥居熊蔵でありました(鳥居1924)。

 石棒は土偶とともに第二の道具の代表格といわれていますが、この二つの宗教的遺物はかなり性格が異なります。出現時期に大幅な年代差があることがそのように考える論拠の一つであります。

 典型的な有頭大形石棒は中期初頭の中部地方に出現しました。中期中葉には北陸地方から関東・中部地方一帯で頭部に陽刻・印刻の文様をもつ彫刻付きのタイプが発達します。中期中葉になると傘型の頭部をもつタイプが広範囲に普及するほか、東北地方でも円筒形で端部に彫刻のある独特なタイプが発達します。大形石棒が盛行するのは中期であり、形態を変えながら後期以降に継承されました。大形石棒の確立は土偶の発生にくらべれば5000年以上も新しいことになり、土偶とは異質な新たな神霊観念が立ち現れてきたことを示唆しています。

 石棒の出土状況にも土偶との性格のちがいが表れています。土偶は墓の中から出土することは稀ですが、大形石棒は墓壙の中や墓域に築造された環状列石からよく出土されます。また、竪穴住居内からの出土類度も高く、奥壁近くに立てられたものや、石囲炉の一部に組み込まれたものが散見されます。中期末には竪穴住居内で焼かれて破砕した状況が多くの遺跡に残されています。大形石棒が死者の埋葬や墓地での祭儀と密接に結びついていたことが読み取れるのであり、家との強い結びつきもうかがえます。

 大形石棒が盛行した中期は環状集落の最盛期にあたり、しかも有頭大形石棒と環状集落の分布範囲はほぼ重なっています。さらに、環状集落が衰退した中期末に数多くの大形石棒が破壊されたことも、両者の関連性の深さを物語っています。石棒祭祀をおこなったのはおそらく中期に発達した親族組織であり、社会総合のシンボルとなる祖霊を大切に祀る性格のものであったと解釈できます。石棒を狩猟の豊穣祈願や農耕と結びつける異説もありますが、そのような解釈では土偶よりも5000年も遅れて出現した意味が解せないのです。

 環状集落に体現された部族社会にとって、祖先祭祀は社会を維持する最も中核的な祭祀体系でありました。北米北西海岸の先住民の建てたトーテムポールに共通する象徴的意味が、大形石棒にも込められていたのではないでしょうか。また、祖霊の象徴として男性的形象が崇拝されたことは、父系出目の優越を示しているようにも思えます。 

(参考文献)

谷口康浩「祈りの形象と神観念」『入門縄文時代の考古学』同成社、2019年