にわか考古学ファンの独り言(縄文時代)

 縄文時代の調理法(集石遺構)

 縄文人のなりわい(食料獲得の技術)として、植物採取と狩猟・漁撈は欠かせませんが、もう一つの大きな視点はその調理方法です。縄文時代遺跡で検出される遺構で、集石遺構というものがあります。これは、多くの石(礫)を集約して加熱し、肉などを焼いた施設と考えられています。

 石には「熱を保持する」「伝導する」という特性があります。集石遺構も被熱した石が集められた遺構で、縄文人が熱の伝導を利用して何らかの行為をした証しと思われています。集石遺構に対しては「お墓」説、「蒸し風呂」説、「石蒸し調理施設」説、などありますが、研究者の間では「石蒸し調理施設」が優勢を占めています。

 ここでは、集石遺構を調理に関連する遺構として考え、現在の調理法と比較してみます。「わっぱ汁」は「わっぱ」(おけ)の中に海水と食材を入れ、そこに焼けた石を投入し沸騰させるという調理方法です。この方法は一度に使用する石の数が少なく、集石遺構の石の数とは大きな差があります。直接火に掛けることができない容器でも、中身を沸騰させることができる方法があるということで、こうした調理方法または焼石の利用方法は縄文人も知っていただろうと考えられます。

 石焼き芋は、食材に直接火を当てずに、熱した石の熱で食材を焼く(蒸し焼き)調理方法です。この方法は、遠くミクロネシア地域などで現在も実施されている調理方法と同様で、こちらは穴を掘ってその中にたくさんの熱した石と食材を入れ、土をかぶせて蒸し焼きにするという調理方法です。穴の中に焼石が充満した状態で発見される「集積炉」によく似ています。

 こうした縄文時代の集石遺構は、いまからおよそ1万年前から4000年前(縄文早期~中期末葉)の遺跡から発見されており、これは竪穴住居の中に使用頻度の高いしっかりとした炉を作らない時期から、石囲い炉など構造的にもしっかりとした炉を設ける時期まで使われていたことを示しています。しかし、集石遺構から食材が出土した例はなく、考古学的にいえば、まだ推定の域を脱していないのが現実です。

 また、縄文土器に関しては、縄文時代における食物加工技術は、まず何よりも煮炊き具としての土器の使用に最大の特徴があります。「煮る」あるいは「茹でる」といった過熱を可能にする土器という新たな調理具の出現が、利用可能な植物資源の幅を拡大したこと、とりわけ灰汁抜きの必要な堅果類の可食化に大きく貢献したことは重要であります(渡辺1984)。では、後期旧石器時代にまでさかのぼる調理技術である焼石調理は、新たな加熱調理具である土器の発達によって、その存在意義を喪失したのでしょうか。地域的差異はあるものの、集石遺構の最盛期が縄文時代早期と中期にあり、以後衰退するという変遷(瀬口2003、谷口1986)を見る限り、全体的な流れとしてこうした説明は間違いないように思われます。しかし、土器と集石とを代替可能な調理法としてとらえるのは、図式としては単純すぎるだろうと思います。土器はその量や機能的問題は措くとしても、縄文時代の創世期以来存在しています。同様に集石遺構は、南九州においては草創期以降普遍的な要素として認識されています(宮田1999、八木澤1994)。むしろ、この両者が共存している状況こそが、縄文時代草創期から早期、そして中期にかけての特徴であり、そこに重要性を見出すことが可能だともいえます。

(参考文献)

長野市民新聞「古代への招待状」『総合欄』2005年8月27日

野嶋洋子「集石の民族誌」『縄文時代の考古学5』同成社、2007年