にわか考古学ファンの独り言(弥生時代その②)

 続縄文時代とは

 弥生時代に九州と四国と本州に広がった水田稲作の技術は、津軽海峡を渡ることはありませんでした。北海道に米作りは上陸しなかったのです。弥生文化の定義のひとつに「水田稲作を行っていること」というものがありますから、「北海道には弥生時代がなかった」ということになります。では、北海道を中心に縄文時代から引き継がれ、紀元前4世紀から頃から紀元7世紀まで続いた時代を「続縄文時代」と言います。

 本州の弥生人たちが必死に米作りをしているのをよそ目に、北海道の人たちは縄文時代と変わらぬ生活をしていました。その理由として、気候が水田稲作に適さないということもあったようですが、それ以上に水田稲作の必要性がなかったということです。目の前に広がる海には、海獣(クジラやアザラシ)や大型の魚類(カジキマグロやオヒョウ)など、秋から冬には河にサケがうようよしているのですから、それを獲らないという理由はありません。ちなみに、北海道で水田稲作が始まったのは1692年ごろとされています。

 縄文時代の遺物

 続縄文時代の遺跡から出土する遺物のなかには、海獣や大型の魚類を獲るために作られた、機能美以上の美しさをもった漁具類が見つかっています。シカの角や骨で作られた銛や釣り針には、非常に美しい模様が施されたものもあります。それらは漁の成功を願ったものなのか、はたまた仕留めた海獣が苦しまないように祈りを込めたものなのか、理由はわかりません。

 骨角器の中には、クマを立体的に彫った匙のようなものや、クマの像もあったりします。これらは副葬品として墓から見つかりました。中でも匙は、複数の子どもが埋葬された墓から見つかっていて、森の王者であるクマの強い力によって守護され、また、新たな命として再生して欲しいという親の願いが込められていたようにも思えます。一方で、そのように貴重なものも子供ながらに埋葬される人がいるということは、当時、すでに社会の中で階層が生まれていた可能性も考えられます。後に続縄文文化は、津軽海峡を渡って青森まで拡大します。稲作をやめて、再び狩猟・採集の生活に戻っていくのです。

(参考文献)

譽田亜紀子「続縄文時代とは」「続縄文時代の遺物」

     『知られざる弥生ライフ』誠文堂新光社2019年