にわか考古学ファンの独り言(縄文時代)

 コラム②

 SF(科学小説)と縄文時代について

 最近読んだSF(科学小説)について、思うことがあったので、気ままに書かせてもらいます。私の読んだSFは、スタニスワフ・レムの『ソラリスの陽のもとに』とレイブラッド・ベリの『火星年代記』です。この二つの小説と縄文時代との関連性を考えてみると、思うところがあります。そのことについて書いてみたいと思います。

 まず、スタニスワフ・レムの『ソラリスの陽のもとに』ですが、これは意志を持った海をもつ惑星ソラリスの謎を解明するために、宇宙ステーションに派遣された心理学者ケルヴィンは変わり果てた研究員たちを目にします。彼らにいったい何が起こったのでしょうか。そしてケルヴィンもまたソラリスの海がもたらす現象に囲われていきます。人間以外の理性との接触は可能か?ー知の巨人が世界に問いかけたSF史上に残る名作です。 

 この小説を読んで私が感じたことは、ソラリスと地球を置き換えた場合、地球が理性のある星と仮定した場合、地球は現在の人間の所業をどう感じているかということです。

人間は、経済最優先のために再開発や化石燃料の莫大な消費を行っています。また、宅地開発や農耕のための土地利用も多くの地球の生態系の命を奪っています。これは、人間にとっては当然の権利といえますが、地球にとっては略奪にほかなりません。このような状況が地球に及ぼす影響は計り知れません。

 つまり、人間は地球という惑星にとってはコロナのような存在ではないかと思うときがあります。人間以外の他の動物は、地球に負荷をかけることなく自然と共存して生きています。人間だけが大いに地球に負荷をかけ、自然を破壊しているのではないでしょうか。 忌むべき何十億もの存在が、地球を覆っているとすれば、地球はその報復として人間を排除することは当然考えられます。たび重なる自然災害は徹頭徹尾人間の仕業であり、地球は人間に対してその鉄槌を下しているのではないかと私は考えます。自業自得です。

 この状況を打破するには、人間はコロナのように「弱体化」しなければなりません。自然と共存して生活してきた縄文社会を決して美化するつもりはありませんが、経済発展最優先でなく、もう一度人間と地球との関係を考え直す時期に来ていると思います。

 もう一つの小説、レイブラッド・ベリの『火星年代記』ですが、この小説は、地球から初の火星探検隊が出発した時から始まります。そしてそれからの火星開発についての出来事が、年代記風に26篇のオムニバス短篇で書かれています。最後に地球に核戦争が勃発し、地球と火星との接触は絶えるのですが、20年ほどした後に、地球の文明に愛想をつかした一家族が、あらためて火星移住者になります。彼らの移住の目的は、火星で一儲けすることでもなければ、火星人と張り合うことでもなく、地球を見捨てた自分たちが新しく火星人になることでした。こうして、不思議な哀愁と未知への戦きとの混淆した感動的な情景をもって、この小説は幕を閉じます。

 この小説は、精神を欠いた物質文明の発達にたいして厳しい批判の目を向けています。文明の発達が必ずしも幸福に結びつくとは限りません。利便性や人間の欲望におもむくままの行動は、あるべき文明の発達を阻害します。これも縄文社会を美化するつもりはありませんが、欲得がなく、皆で協力して平和に暮らしていた縄文人の生き方を、もう一度考え直してみる必要があるのではないでしょうか。