にわか考古学ファンの独り言(縄文時代その②)

 豊かさの限界

 縄文時代は決して貧しい時代ではなく、サスティナビリティに富んだ豊かな時代であったことは、前にも述べてきました。しかし、その豊かさにも限界があったことは確かです。このことについて書いてみたいと思います。

 真脇遺跡がイルカ漁の集落であったとはいえ、人びとはイルカ漁だけをしていたわけではありません。多種類の魚や陸獣の骨、あるいは植物遺体が出土しているように、多種多様な資源を食料として利用していました。こうした縄文人の食料利用は、現代人にはどう映るのでしょうか。たとえば少し前の話になりますが、2000年の「発掘された日本列島展」では、縄文遺跡からはじめてイモ類が発見された京都府の松ケ崎遺跡で、イモ類などの植物遺体に混じって、マダイやヒラメ、フグなどの魚骨が出土し、「縄文人は意外にグルメ。イモの他、タイやヒラメも」と紹介されました。

 自然物にたよる獲得経済の社会では、食料が少数の種類に頼りすぎると、それらが異常気象などで被害にあったときに、たちまち自分たちの生存そのものが危うくなります。それを防ぐためには、多種多様な資源を食料として利用する必要があります。しかも、集落で安定した生活を維持していくためには、周辺の食料資源を多角的に利用することが不可欠であったのです。グルメとも映る縄文人の食生活こそは、彼らの生きる知恵の証でした。

 こうした縄文人の食料利用を可能としたのは、なんといっても日本列島の多彩で豊かな自然環境があったからです。というのも、生活の本拠となる集落の周辺に多彩な環境があり、しかも、一年の季節の変化がはっきりしている日本列島は、潜在的な食料資源に恵まれていました。この潜在的な食料資源を積極的に開発したことが、豊かな縄文社会の基盤となったのです。

 しかし、縄文時代が総体的に豊かな社会であったとはいえ、そこには基本的な限界がありました。なぜなら、栽培植物を利用していたとはいえ、そのほとんどを自然物にたよっていたからです。自然物の増殖率の範囲内であれば、人口の増加による食料の確保も可能ですが、ひとたび自然の増加率を超えるような人口増があると、自然物が枯渇して食料不足に見舞われてしまいます。時には、環境の変化が食料不足に追い打ちをかけることもありました。

 「縄文王国」と形容される長野県の遺跡数の増減がそのことをよくあらわしています。長野県では、早期から前期にかけて遺跡数は倍増し、中期になると、いっきにその三倍にも激増します。ところが後期になると、こんどは一転して激減し、晩期には中期のわずか五パーセント以下にまで落ち込んでしまいます。これは長野県の縄文中期には、文化の繁栄による人口の増加が食料資源の枯渇を招くまでになっていたうえに、さらに悪い条件が重なってしまったからです。中期後半から地球規模で気候が冷涼で湿潤な環境に変化したことで、食料資源の枯渇に環境の変化が追い打ちをかけることになり、壊滅的な打撃を与えてしまったのです。

 縄文社会の豊かさというのは、つねに限界を抱えていたということを理解していないと、縄文文化の本質は理解できません。

(参考文献)

勅使河原 彰「豊かさの限界」『縄文時代ガイドブック』新泉社2013年